【ゆっくり歴史解説】 名君から暗君へ 玄宗 李隆基 【唐】
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- Опубликовано: 15 сен 2024
- 楊貴妃とのロマンスで有名な 唐の玄宗を紹介します。
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楊貴妃は玄宗の寵愛にも関わらず政治的な野心は無かったそうですね。結末は悲劇ですが彼女は彼女なりに玄宗の心の支えになろうとしたのではないでしょうか?その意味で後世の評価で、末喜や妲己のような悪女たちと同類に扱われなかったのは彼女にとって最大の幸運かもしれません。
楊貴妃自身は政治に介入しなかったが、彼女の一族を取り立てた玄宗と取りたてられた楊一族が悪すぎた。
高力士が何故それほどまでに玄宗に仕えた?慕い続けた?のかが分かりません。動画は大変勉強になりました!面白かったです。
あくまで私個人の見方ではありますが
高力士は他者の手で去勢された身であり
宦官は(宦官ではない人間からは)あたかも『人ではない特殊な生き物』であるかのように見なされてしまった時代でしたから
玄宗が高力士を「ひとりのヒトとして遇する心を見せた」ことに心底感謝したのではないか?というようにも思えます
皇帝としては中盤以降はあまりに芸事に傾きすぎた玄宗ですが
そうした文人気質≒一種のロマンチシズムがあったことが
高力士を「単なる異形の生き物ではなく一人の人間である」と玄宗が考えた要因のひとつになり
それが高力士の忠誠心を高める要素になった…
少々情緒的に過ぎるとは思いますが
そんな側面もあったのかな?などと思う面もあります
GF8EWRX ありがとうございます。その忠誠心は何処からきたのかが分からない(納得がいかない)んです。
臣下は主に仕えるのが当時の常識思想ということになるのでしょうか…
過去の人ですから推測多々ですが。
ふわふわ青花火
ありがとうございます。
玄宗の、特に後半に傾倒した文化愛から、芸術などの人の外見よりも中身の部分を見ていたであろうとすれば、高力士をたかが宦官と捉えずに一臣下として置いていたのでは?とし、高力士もそれに応え敬慕していたのなら、その忠誠心に頷けます。
当人でなければ分からない、そうであったら良いなというロマンな話ですねw
宦官って去勢されてるから、その性欲の分を他の欲に回すことが多いとは言われてますね。よく、宦官が権力やお金を執着するのがその現れで、高力士はそれが忠誠心として現れたということかと思います。元々出自が良いだけに皇帝の忠実な手足になるのは強い喜びだったでしょうし。
@@user-fn5fe7ve7g 「士は己を知る者のために死す」的ですな。物として扱れたから物として振る舞い、人として接されたから人として振る舞い、親の如く慕われたから親として振る舞った、みたいな。
100分までなら耐えれるからこれからも長い解説期待してます
実のところ玄宗の44年の治世って、明らかに暗君と言えるのは最後の2年だけなんですよね。
40年以上は曲がりなりにも平和と繁栄を謳歌していたんだけど、楊貴妃の印象が強すぎですね。
玄宗と楊貴妃というと、映画『空海(中国名:妖猫伝)』で描かれた玄宗や楊貴妃などのドラマは面白かったです。
(映画自身も動く中国絵巻といった感じで面白いのでお勧めです)
しかし、文化を育て今に至るまでの文化土壌を作った皇帝とはいえ…後年の手腕は、暗愚と言えますね。
文化と政治の両面において凄腕な人物は世界史を見てもなかなか少ないですね。
個人的には、則天武后の動画とても楽しみです。しかし、自分が帝位を退いた後においても優秀な人材を残したのがすごい…女版曹操やフビライといった感じですね。とても好きな歴史の人物の一人です。
いつも興味深く視聴させてもらっています。
安史の乱で奮戦した郭子儀、李光弼、李泌、張巡、顔真卿らの活躍や悲劇も動画にしていただきたい。特に張巡の悲劇は戦争の恐ろしさ、悲しさ、残酷さがよく出ている話なので現代でも通じる教訓が得られると思います。
結局則天武后の優れた部下が開元の治をもたらしただけで、玄宗自体は暗君では無いけど明君でも無かったんじゃね?
実際則天武后が作った土台に乗っかってただけって印象は拭えないですね
則天武后が見いだした人材が失ったころから落ち目になってるあたり人の見る目はサッパリ無さそうですね 高力士はたまたまイエスマンが優秀だったってだけで
悪名高い殷の紂王も若き日は英明王と讃えられていた。
それは割りとそう思った。
高力士は玄宗を愛しちゃってたのかもねぇ
とても面白く勉強になりました。
どんなに能力があるリーダーでも時代により変化するのは難しい。
現代で云えば日産のゴーンさんのようですね(笑)。
「国破れて山河あり、城春にして草木深し…。」の詩が出てきた漢文の授業を思い出しました
近衛兵が主君に妻を殺せと迫るとか、凄い恨みだったんだろうな
玄宗は王羲之の書を熱愛して、国中の王羲之の作品を全て集め、死に際して自らの墓に納めた。こうして王羲之の真筆は全て失われた。
楊貴妃のお墓が山口にあるのは歴史のロマンですな。
三国時代の呉の孫権なんかも前半生は英傑の名にふさわしい君主だったが後半生は暴君になったりするし、清最盛期の皇帝乾隆帝でも晩節を汚しているので名君が必ずしも生涯通じて名君たり続けるわけではないよなあ
@GF8EWRX 皇帝菩薩…しかも在位中の元号が「普通」というのもなかなか
この動画見て武則天有能すぎるやろ…と思ったのは私だけではない筈……。
人を見る目は図抜けていたのはたしからしいですし。
いつも最高の動画ありがとうございます😊
権力奪取とその後しばらくの間は「こうしたい」という目的とモチベーションが高かったものの、王朝の行方を左右する極めて高難易度の課題である律令体制の改革については、「こうしたい」「こうすれば良くなる」というビジョンがさっぱり閃かず、玄宗はつい裸足で政務から逃げ出した、目を背けた感が否めませんね。動画11分30秒あたりの解説が皇帝玄宗にとってのまさに岐路でした
玄宗皇帝・楊貴妃・安禄山のエピソードとして、安禄山におむつを履かせて女中たちが彼を乗せた神輿を担いだ、というものがあるそうです。
玄宗は前半が素晴らしかっただけに、後半の残念ぶりが惜しまれますね。
最後まできっちりやり通すことが、いかに難しいことなのかを思い知らされます。
伍子胥に屍を鞭打たれた楚の平王も太子の妃に迎える秦の姫が美女だと知って佞臣にすすめられるままに代わりの妃を太子にあてがい秦姫を自分のものとした。
この秦姫が生んだ昭王の時に都の郢を伍子胥が仕える呉に落とされ滅亡寸前においこまれてる。
息子の嫁を奪うと時に国が傾くことがあるってことだな。
@マスタード
熊居(平王)「俺、セーフ!
まだ息子とお見合いもさせてないタイミングでの横取りだし。代わりの嫁ちゃんもあげてるし。w
後世の倫理観でも俺、絶対セーフッ!!」
共王・熊審「この馬鹿息子がーお前の根性を一から鍛え直してやる‼️」(精神注入パンチを浴びせながら)
睿宗と玄宗李隆基が、近衛兵を率いて宮中に突入した時に叫んだのが『馬鞭以上の者は斬れ❗』というものでした。
韋后は鏡に向かって座っているところで、バッサリ斬られています。
高力士の歪んだ愛が心に響く
皇帝陛下のお言葉はすべてに優先される。とか言ってそう。
@@donboy0581 ミストバーンならぬリキシバーンか
知ってるつもり、だったことを改めて学びなおせて、尺の長さを感じさせない面白さでした。玄宗は書家としても一流でしたが、個人的印象として言えば、芸術家ないし文化人の字であって、政治指導者、皇帝の字ではないように見えます。
ごっつ長編になると思うけど、中国古代史それぞれ時代に順じたアニメやドラマが有ったらオモロいやろなぁ。
三国志はごっつ有名やけど、唐の始まりから終焉までも興味がある。
いまでは則天武后の方が評価されているよ
玄宗皇帝の治世も、その前に則天武后の手腕で国が安定していたから出来た事であり
標準以上の能力があれば玄宗皇帝程度の治世が続けられたと言われている。
則天武后は女性という理由でこれまで中国では叩かれ続けたし、実際に密告を奨励するとか陰湿な面はあったが
彼女の政治手腕は確かだったようだ。
不夜城のアサシンとして馴染んでる
高力士の名は献上される際に金剛力士の力士からとられつけられたもので本名は「馮元一」。
同時に献上された少年は金剛という名前だったが金剛はその後の動向は不明である。
皇族からは「爺」と呼ばれたりして玄宗一家の執事のような存在だったという。
大作をありがとうございました👏👏
国語の教科書で、長恨歌出てきたんだけれど、泣いちゃったよ。山月記、長恨歌、ごんぎつね の三傑は良いよね。個人的に、鴻門の会の話は知識があれば悲話になるから面白い。
6:27 へ~~、本当に力士のような体格だなぁ!力士の語源かな?
・・・と思ったら、ふつ~の力士画だった
どうしても仕方ないですが、唐王朝のキラ星のようなスター達が一気に出過ぎて勿体ない感が、後日の個々の動画楽しみです(^∇^)
この後の動画も楽しみに待ちます
高力士……これには、アニメでウルフマンからリキシマンに改名させられた超人もにっこり。
いたなそんな方
あの世ににて太宗「隆基よこのバカモンガー」(CV.若本槻夫)と言いつつひたすら百烈ピンタ後に鉄棒でひたすらお仕置きされる玄宗
玄宗がまともならすべての問題解決したんじゃね。
なにかで読んだことだが。
則天武后時代に、門閥によらず、優秀な人材が多数登用された。
玄宗の開元の治は、それら則天武后が登用した人材がまだ健在で、活躍したおかげ。
らしい。
ホントだろうか?
李朝は国力は中国屈指だけど権力闘争は結構ドロドロ。
玄宗の作品は退位してからのものを一作書かせてもらいましたが書いていて寂しい思いをした記憶があります。若い頃は名君であったのに年老いてからは。ですがどうも人気があるんですよねその許されないロマンスから。そうした意味では徳をしている人でしょうか。
今の日経の小説(阿倍仲麻呂)の時代だね。勉強になります!
すでに租庸調制が崩壊しつつある中で玄宗含め政権中枢が衰退の兆候を察知できていなかったのだと思います。
暗君、と言えるほどの無軌道さはないものの先代に倣って譲位していればまた違った運命だったかもしれません。ifの話ですが。
則天武后も動画にされるということなので清の雍正帝もよろしくお願いします。
実は玄宗は子だくさんでもあり、三十男二十九女であったと伝えられている。日本の江戸幕府の第十一代将軍の徳川家斉も男女合わせて五十三人もうけたが、それを上回るのだから恐れ入る。それだけ絶倫だったのだろうが、そんなことだから楊貴妃に現を抜かしたようにも思える。結局、彼の治世は終わり良ければ総て良し、悪ければ全て台無しだった。「麒麟も老いては駑馬に如かず」であった。
曹操も男だけ50人いたなんて話もありますな。
中華は、領土が広大で人口も多いので一つの王朝で支配できる限界を超えている。
多言語・多宗教・多民族も分裂しやすい要因。安定した治世を維持する事自体が奇跡。
100高評価目押させていただきました
いつも楽しく見させて頂いてます!
公主ってパンダの名前と思っていたら(シャンシャンのお父さんのお母さんの名前)皇帝の娘のことを指すのね。伊豆の象牙と石の美術館は象牙の彫刻については故宮を凌ぐとさえ言われていますが(私は台湾の故宮に行ったことがありますが誇張表現とは思いません)長恨歌をモチーフとした屏風がありぜひ皆さん見てください
安禄山は、温水プールで楊貴妃が彼のオムツを替えてあげているところを、目撃した玄宗に爆笑され取り立てられたそうです。
玄宗が唐の最盛期を作ったというのだが、太宗と武則天が残った人材と制度が重要で、功過をいうなら過失が多い皇帝と思う。
たまに仙人とかの紹介はどうですか。楊戩、鍾馗とか
楊貴妃本人は正直大した事をしていないと思うので、玄宗がその周りにいた外戚に変に権力を
与えることをしなければ済んだ事なんだよな。もしくは宰相をもっとまともなのに出来ていれば。
姚崇と宋璟、同時期に張説、そしてその張説に見出された張九齢が宰相だった時期は非常に安定して
いたのに。則天武后、駄目なやつらを寵臣にしてしまっているけどその姚崇と宋璟を見出したし
駄目な寵臣と対立した剛直な狄仁傑を宰相として重用し続けていたのだから見る目は侮れない。
安禄山の乱の際、封常清や哥舒 翰が潼関を守っていたし郭子儀や李光弼が近くにいた上、顔杲卿や
その同族で書道で有名な顔真卿のような烈士もいたのにあれほどまで大きなことになってしまったのは
ひとえに朝廷に纏まりが無く有能な人材が排除されてしまっていたからだろう(主に李林甫、後に楊国忠に)。
Ryuki_K
特にあのオムツ野郎に力を与えたのは大失敗でしたね
去年杜甫故里に行ったので感慨深い。
玄宗の時代には書の世界でも顔真卿が健在で今日の明朝体の元になった書体を発明しました。安史の乱で一族が虐殺の憂き目にあった事を嘆く手紙が日本で公開されたことは記憶に新しいですね。
また日本とも一番縁の深かった時代かもしれませんね。宮廷に仕えて帰国を果たせずベトナムで客死した阿倍仲麻呂の話は映画にしてもらいたいくらいです。
振り返れば夢幻のような人生とは玄宗のそれを言うのだろうな...
動画配信されている動画主さんへ、
名君→暗君というパターンが多いけど、
逆パターンで暗君→名君になった人物の動画配信を期待します。
いつか太平公主も単独で解説してほしいです。彼女はかなり強烈な女傑なのに実力に比し知名度があまり…なので。
元々は男たちのせいですが、結局女一人に全部引き受けられました。
「遣唐使 阿倍仲麻呂の夢」 というのを読むと玄宗の事を嫌いになれない。中華思想の強化してあげなきゃ精神からとは言え、日本へ貴重な書物を持っていくことを許可したり、阿倍仲麻呂に目をかけたりしてくれた。盛唐を終わらせたなんて結果論だ。
安史の乱で晁衡こと阿部仲麻呂は帰国のチャンスを失ってしまったけれどもあのとき日本に帰っても恵美押勝の乱とか権力闘争が激化している時期だったので政争に利用されるか干されるかのどっちかしかなかったから結局帰らないで良かったのかもしれない。
玄宗の耄碌が後の五代十国時代に繋がっていくんですねえ。
憲宗がおかしくなったあたりからはもう転がり落ちるだけみたいな。
確かに、玄宗が政治に倦まなければ、後世において盛唐と呼ばれる時代はもう50年は続いたかもしれない。
楊貴妃の中国映画は面白かったです。楊貴妃役の女優は脱税で大変なことになりましたが、最近復帰できたみたいです
息子の妃にのめり込み汚した晩節は返すがえすも残念
開元の治の功績は素晴らしいだけに…。
eジャンラージャン 政治がめんどくさいなったならさっさと禅譲して、隠居すればよかったのに。
鳥人間の鳥が烏になってますね。
あばばばばばばば
この慌てる擬音、好きなんです😂
17:18頃から画面にモザイク入るのは『息子さんの元嫁で玄宗さんの息子さんが元気になった』、という暗喩ですかね・・(下卑た笑み)
高力士の忠臣ぶりやべえ
岳飛と岳雲やって欲しい
いずれ郭子義の動画も期待しています!
高力士は林や楊を止められら無かったのか、と思いました。高力士は宰相ではなかったんでしょうか。活躍的に見て宰相だと思ってました。
どっちかって言うと執事長
この動画を見て、玄宗本人は元々優柔不断なところもあった気もする。それが年老いて、ひどくなった事で、王朝の混乱を招いた。悲しい事に、玄宗は老害となってしまったのだ…。
政治に飽きてしまったのなら早いところ帝位を譲ってしまえばいいのに、と後世の人間からすれば思ってしまうのだけど、そうもいかなかったんでしょうな。
しかし、長い治世の中でも最後まで名君であり続けた清の康熙帝が改めて偉大に思えてきますな。
唐朝、毛色の違う大イベントが複数起こるせいで脳が混乱する
前半生と後半生の落差の激しさというと某皇帝大菩薩を思い出しますね。
もっとも、彼を滅ぼした相手の方が一部で大人気ですけど
玄宗、楊貴妃、高力士の関係性、なんて美しく高潔な事だろう!
比して李林甫、楊国忠、安碌山の不忠さに怒りが止まんない
無垢な楊貴妃は最期に何を感じたんだろう?
高力士の健気にして誠実を貫いた最期に涙が止まんない
これがリアルだったことを想い起こすと、哀しみにトドメを刺されました
壮大な名作映画のような素晴らしい感動巨編動画をありがとうございました
煬帝と玄宗、どっちがどっちだったかうろ覚えでしたが、やっとはっきりすることができました。
だいぶ違いますね。
楊貴妃って痩せてる小柄な女性をイメージしてるんだが…中国の友人曰く楊貴妃はとても太っていたらしい。唐の時代は痩せているより太っている人がモテたという。これは本当なんでしょうか?
《舊唐書 列傳 卷51 后妃 上》
1. 玄宗廢后王氏,同州下邽人,梁冀州刺史神念之後。上為臨淄王時,納后為妃。上將起事,頗預密謀,贊成大業。先天元年,為皇后,以父仁皎為太僕卿,累加開府儀同三司、邠國公。后兄守一以后無子,常懼有廢立,導以符厭之事。有左道僧明悟為祭南北斗,刻霹靂木,書天地字及上諱,合而佩之,且祝曰:「佩此有子,當與則天皇后為比。」事發,上親究之,皆驗。開元十二年秋七月己卯,下制曰:「皇后王氏,天命不祐,華而不實。造起獄訟,朋扇朝廷,見無將之心,有可諱之惡。焉得敬承宗廟,母儀天下?可廢為庶人,別院安置。刑於家室,有愧昔王,為國大計,蓋非獲已。」守一賜死。其年十月,庶人卒,以一品禮葬於無相寺。寶應元年,雪免,復尊為皇后。
2. 玄宗貞順皇后武氏,則天從父兄子恆安王攸止女也。攸止卒後,后尚幼,隨例入宮。上即位,漸承恩寵。及王庶人廢後,特賜號為惠妃,宮中禮秩,一同皇后。所生母楊氏,封為鄭國夫人。同母弟忠,累遷國子祭酒;信,秘書監。惠妃開元初產夏悼王及懷哀王、上仙公主,並繈褓不育,上特垂傷悼。及生壽王瑁,不敢養於宮中,命寧王憲於外養之。又生盛王琦,咸宜、太華二公主。惠妃以開元二十五年十二月薨,年四十餘。下制曰:「存有懿範,沒有寵章,豈獨被於朝班,故乃施於亞政,可以垂裕,斯為通典。故惠妃武氏,少而婉順,長而賢明,行合禮經,言應圖史。承戚里之華胄,升後庭之峻秩,貴而不恃,謙而益光。以道飭躬,以和逮下,四德粲其兼備,六宮咨而是則。法度在己,靡資珩佩;躬儉化人,率先絺纮。夙有奇表,將加正位,前後固讓,辭而不受,奄至淪歿,載深感悼,遂使玉衣之慶,不及於生前;象服之榮,徒增於身後。可贈貞順皇后,宜令所司擇日冊命。」葬於敬陵。時慶王琮等請制齊衰之服,有司請以忌日廢務,上皆不許之。立廟於京中昊天觀南,乾元之後,祠享亦絕。
3. 玄宗楊貴妃,高祖令本,金州刺史。父玄琰,蜀州司戶。妃早孤,養於叔父河南府士曹玄璬。開元初,武惠妃特承寵遇,故王皇后廢黜。二十四年惠妃薨,帝悼惜久之,後庭數千,無可意者。或奏玄琰女姿色冠代,宜蒙召見。時妃衣道士服,號曰太真。既進見,玄宗大悅。不期歲,禮遇如惠妃。太真姿質豐艷,善歌舞,通音律,智算過人。每倩盼承迎,動移上意。宮中呼為「娘子」,禮數實同皇后。有姊三人,皆有才貌,玄宗並封國夫人之號:長曰大姨,封韓國;三姨,封虢國;八姨,封秦國。並承恩澤,出入宮掖,勢傾天下。妃父玄琰,累贈太尉、齊國公;母封涼國夫人;叔玄珪,光祿卿。再從兄銛,鴻臚卿。锜,侍御史,尚武惠妃女太華公主,以母愛,禮遇過於諸公主,賜甲第,連於宮禁。韓、虢、秦三夫人與銛、锜等五家,每有請托,府縣承迎,峻如詔敕,四方賂遺,其門如市。
皇場五載七月,貴妃以微譴送歸楊銛宅。比至亭午,上思之,不食。高力士探知上旨,請送貴妃院供帳、器玩、廩餼等辦具百餘車,上又分御饌以送之。帝動不稱旨,暴怒笞撻左右。力士伏奏請迎貴妃歸院。是夜,開安興里門入內,妃伏地謝罪,上歡然慰撫。翌日,韓、虢進食,上作樂終日,左右暴有賜與。自是寵遇愈隆。韓、虢、秦三夫人歲給錢千貫,為脂粉之資。銛授三品、上柱國,私第立戟。姊妹昆仲五家,甲第洞開,僭擬宮掖,車馬僕禦,照耀京邑,遞相誇尚。每構一堂,費逾千萬計,見制度宏壯於己者,即撤而復造,土木之工,不舍晝夜。玄宗頒賜及四方獻遺,五家如一,中使不絕。開元已來,豪貴雄盛,無如楊氏之比也。玄宗凡有遊幸,貴妃無不隨侍,乘馬則高力士執轡授鞭。宮中供貴妃院織錦刺繡之工,凡七百人,其雕刻熔造,又數百人。揚、益、嶺表刺史,必求良工造作奇器異服,以奉貴妃獻賀,因致擢居顯位。玄宗每年十月幸華清宮,國忠姊妹五家扈從,每家為一隊,著一色衣,五家合隊,照映如百花之煥發,而遺鈿墜舄,瑟瑟珠翠,燦爛芳馥於路。而國忠私於虢國而不避雄狐之刺,每入朝或聯鑣方駕,不施帷幔。每三朝慶賀,五鼓待漏,艷妝盈巷,蠟炬如晝。而十宅諸王百孫院婚嫁,皆因韓、虢為紹介,仍先納賂千貫而奏請,罔不稱旨。天寶九載,貴妃復忤旨,送歸外第。時吉溫與中貴人善,溫入奏曰:「婦人智識不遠,有忤聖情,然貴妃久承恩顧,何惜宮中一席之地,使其就戮,安忍取辱於外哉!」上即令中使張韜光賜御饌,妃附韜光泣奏曰:「妾忤聖顏,罪當萬死。衣服之外,皆聖恩所賜,無可遺留,然髮膚是父母所有。」乃引刀翦髮一繚附獻。玄宗見之驚惋,即使力士召還。
國忠既居宰執,兼領劍南節度,勢漸恣橫。十載正月望夜,楊家五宅夜遊,與廣平公主騎從爭西市門。楊氏奴揮鞭及公主衣,公主墮馬,駙馬程昌裔扶主,因及數撾。公主泣奏之,上令殺楊氏奴,昌裔亦停官。國忠二男昢、暄,妃弟鑒,皆尚公主,楊氏一門尚二公主、二郡主。貴妃父祖立私廟,玄宗御制家廟碑文並書。玄珪累遷至兵部尚書。天寶中,范陽節度使安祿山大立邊功,上深寵之。祿山來朝,帝令貴妃姊妹與祿山結為兄弟。祿山母事貴妃,每宴賜,錫賚稠沓。及祿山叛,露檄數國忠之罪。河北盜起,玄宗以皇太子為天下兵馬元帥,監撫軍國事。國忠大懼,諸楊聚哭,貴妃銜土陳請,帝遂不行內禪。及潼關失守,從幸至馬嵬,禁軍大將陳玄禮密啟太子,誅國忠父子。既而四軍不散,玄宗遣力士宣問,對曰「賊本尚在」,蓋指貴妃也。力士復奏,帝不獲已,與妃詔,遂縊死於佛室。時年三十八,瘞於驛西道側。
上皇自蜀還,令中使祭奠,詔令改葬。禮部侍郎李揆曰:「龍武將士誅國忠,以其負國兆亂。今改葬故妃,恐將士疑懼,葬禮未可行。」乃止。上皇密令中使改葬於他所。初瘞時以紫褥裹之,肌膚已壞,而香囊仍在。內官以獻,上皇視之淒惋,乃令圖其形於別殿,朝夕視之。
馬嵬之誅國忠也,虢國夫人聞難作,奔馬至陳倉。縣令薛景仙率人吏追之,走入竹林。先殺其男裴徽及一女。國忠妻裴柔曰:「娘子為我盡命。」即刺殺之。已而自刎,不死,縣吏載之,閉於獄中。猶謂吏曰:「國家乎?賊乎?」吏曰:「互有之。」血凝至喉而卒,遂瘞於郭外。韓國夫人婿秘書少監崔峋,女為代宗妃。虢國男裴徽尚代宗女延安公主,女嫁讓帝男。秦國夫人婿柳澄先死,男鈞尚長清縣主,澄弟潭尚肅宗女和政公主。
安史の乱で活躍した郭子儀も紹介して欲しいな。(息子を板で殴る話、面白い。)
ちなみに字も子儀です。
楊国忠登場時の肖像画がWikipediaでは郭子儀として紹介していますね
楊貴妃と共に中国四大美女(西施・王昭君・貂蝉)も上げて欲しいぜ。……架空の人物が混じっているけれどもw
架空は貂蝉だけかな?
宦官が悪い奴だっていうイメージはだいたい趙高と魏忠賢のせいやろ・・・
あとは三国志の十常侍と黄皓かな
名宦官だと
司馬遷
蔡倫
曹騰
鄭和
王承恩
あたりがかなり有名
則天武后の後周は690年~705年
玄宗皇帝の生き様が人間ドラマの様です。50代半ばで引退できたら違っていた様な。仲良しだった奥さんが亡くなった辺りからおかしくなり始めた。残念。楊貴妃は皇太子妃のままなら子にも恵まれ普通に幸せだったでしょう。気の毒過ぎます。
太平公主も非凡な人物だよなぁ
武則天も生前決して彼女を手放そうとしなかった
まあそれが死を招いた訳だが
太平公主は確かに非凡だった。だが権謀術数渦巻く宮中での権力争いを生き抜いた則天武后の政治的センスと運は異常すぎた。
冒頭のBGMってなんて曲ですか?
甘茶の音楽工房様の「緩やかな風」ですよー
前漢の景帝が晁錯を殺したみたいに、乱が発生した直後に玄宗が楊国忠一人だけを適当な理由をつけて殺しとけば、楊貴妃や他の楊一族が死ぬことはなかったんじゃないだろうか?
颯爽たり李隆基
十八史略ですね。
息子から妃を取り上げる?
安禄山もこれやってたよねw
安禄山画像。これに似た西郷隆盛の絵があったような...描かせたのは久光派?帝位定年制導入ひつようですね。20世紀にも晩節汚したかたがあり、現在もまた...
エカテリーナ女帝かな
則天武后。毒殺されるのは
アレクサンドル一世の前の
パーヴェル一世かな。
辛い
▪唐王朝か…魅力的な王朝です。第6代玄宗(李隆基)⇒後半に成ると、内政は派閥抗争か更に反乱が興る…安禄山の乱が全国に拡大する、玄宗は帝都から亡命する。彼女は反乱を興した民衆の犠牲者に
李林甫の画像って玄宗の画像じゃないですか?
唐の時代だけの話しでは無いですね。現在の各国の
政治舞台でも、佳く似た
事が視られます。
韓国政権の状態とか
米国大統領の選挙戦とか
我が国与党内での
派閥争いとか
歴史は繰返し似た様相に成ります。良い事を繰り返すなら……平和なのだが!
おもしろい。。
睿宗は反乱に参加していなかったのではなかったですか。
資治通鑑では父親に迷惑かけたくないので、玄宗が事後報告したと記述されていた気が。
まあ細かい事ですが...
金色のガッシュ!!で知った
玄宗と高力士は
アッーの高い信頼関係だった。
《舊唐書 列傳 卷52 后妃 下 》
肅宗張皇后,本南陽西鄂人,後徙家昭應。祖母竇氏,玄宗母昭成皇太后之妹也。昭成為天后所殺,玄宗幼失所恃,為竇姨鞠養。景雲中,封鄧國夫人,恩渥甚隆。其子去惑、去疑、去奢、去逸,皇姨弟也,皆至大官。去盈尚玄宗女常芬公主。去逸生后,天寶中,選入太子宮為良娣。后弟清,又尚大寧郡主。
后辯惠豐碩,巧中上旨。祿山之亂,玄宗幸蜀,太子與良娣俱從,車駕渡渭,百姓遮道請留太子收復長安。肅宗性仁孝,以上皇播越,不欲違離左右。宦者李靖忠啟太子請留,良娣贊成之,白于玄宗。太子如靈武,時賊已陷京師,從官單寮,道路多虞。每太子次舍宿止,良娣必居其前。太子曰:「捍禦非婦人之事,何以居前?」良娣曰:「今大家跋履險難,兵衛非多,恐有倉卒,妾自當之,大家可由後而出,庶幾無患。」及至靈武,產子,三日起,縫戰士衣。太子勞之曰:「產忌作勞,安可容易?」後曰:「此非妾自養之時,須辦大家事。」肅宗即位,冊為淑妃。贈父太僕卿去逸左僕射,母竇氏封義章縣主,姊李曇妻封清河郡夫人,妹師師封郕國夫人。乾元元年四月,冊為皇后。弟駙馬都尉清加特進、太常卿,同正,封范陽郡公。皇后寵遇專房,與中官李輔國持權禁中,干預政事,請謁過當,帝頗不悅,無如之何。後於光順門受外命婦朝,親蠶苑中,內外命婦相見,儀注甚盛。先在靈武時,太子弟建甯王倓為后誣譖而死。自是太子憂懼,常恐后之構禍,乃以恭遜取容,后以建寧之隙,常欲危之。張后生二子:興王佋、定王侗。興王早薨,侗又孩幼,故儲位獲安。
寶應元年四月,肅宗大漸,后與內官硃輝光、馬英俊、啖廷瑤、陳仙甫等謀立越王係,矯詔召太子入侍疾。中官程元振、李輔國知其謀,及太子入,二人以難告,請太子在飛龍廄。元振率禁軍收越王,捕硃輝光等。俄而肅宗崩,太子監國,遂移后於別殿,幽崩。誅馬英俊,女道士許靈素配流,山人申大芝賜死,駙馬都尉清貶硤州司馬,弟延和郡主婿鴻臚卿潛貶郴州司馬,舅鴻臚卿竇履信貶道州刺史。
肅宗韋妃编辑
肅宗韋妃。父元珪,兗州都督。肅宗為忠王時,納為孺人,及升儲位,為太子妃,生兗王僴、絳王佺、永和公主、永穆公主。天寶中,宰相李林甫不利於太子,妃兄堅為刑部尚書,林甫羅織,起柳勣之獄,堅連坐得罪,兄弟並賜死。太子懼,上表自理,言與妃情義不睦,請離婚,玄宗慰撫之,聽離。妃遂削髮被尼服,居禁中佛舍。西京失守,妃亦陷賊。至德二年,薨於京城。
権力を握るってこういう事だよね。
他人を油断させ、貶める事に長けた人が出世する。
そして佞臣は最期、必ず破滅する。
忠節を尽くした人達は一時的には貶められるけど、結局は名臣として名を遺しますね。
《舊唐書 本紀十 肅宗》
天寶十三載正月,安祿山來朝,上嘗密奏,雲祿山有反相。玄宗不聽。十四載十一月,祿山果叛,稱兵詣闕。十二月丁未,陷東京。辛丑,制太子監國,仍遣上親總諸軍進討。時祿山以誅楊國忠為名,由是軍民切齒于楊氏。國忠懼,乃與貴妃謀間其事,上遂不行。乃召河西節度使哥舒翰為皇太子前鋒兵馬元帥,令率眾二十萬守潼關。
明年六月,哥舒翰為賊所敗,關門不守,國忠諷玄宗幸蜀。丁酉,至馬嵬頓,六軍不進,請誅楊氏。於是誅國忠,賜貴妃自盡。車駕將發,留上在後宣諭百姓。眾泣而言曰:「逆胡背恩,主上播越,臣等生於聖代,世為唐民,願戮力一心,為國討賊,請從太子收復長安。」玄宗聞之曰:「此天啟也。」乃令高力士與壽王瑁送太子內人及服禦等物,留後軍廄馬從上。令力士口宣曰:「汝好去!百姓屬望,慎勿違之。莫以吾為意。且西戎北狄,吾嘗厚之,今國步艱難,必得其用,汝其勉之!」上(肅宗)回至渭北,便橋已斷,水暴漲,無舟楫;上號令水濱百姓,歸者三千餘人。
今回ちょっと長かったですね。20分ぐらいが所望です。
ひとりの人間に、軍事権も内政権も持つ地方長官を、3つも兼任させるとか…駄目な事は過去の歴史を見ても明らかだと思うのに…。
《舊唐書 卷183 列傳第133 外戚》
攸暨,則天伯父士讓孫也。天授中,封士讓為楚王,攸暨封千乘郡王。賜爵實封三百戶。兄攸寧為建昌郡王,實封四百戶。攸寧歷遷鳳閣侍郎、納言、冬官尚書,病卒。
攸暨初為右衛中郎將,尚太平公主,授駙馬都尉。累遷右衛將軍,進封定王,又加實封三百戶。俄又改安定郡王,歷遷司禮卿、左散騎常侍,加特進。神龍中,拜司徒,復封定王,實封滿一千戶,固辭不拜。尋而隨例降封樂壽郡王,拜右散騎常侍,加開府儀同三司。延秀等誅後,又降封楚國公。延和元年卒,贈太尉、并州大都督,追封定王。尋以公主謀逆,令平毀其墓。
太平公主者,高宗少女也。以則天所生,特承恩寵。初,永隆年降駙馬薛紹。紹,垂拱中被誣告與諸王連謀伏誅,則天私殺攸暨之妻以配主焉。公主豐碩,方額廣頤,多權略,則天以為類己,每預謀議,宮禁嚴峻,事不令泄。公主亦畏懼自檢,但崇飾邸第。二十餘年,天下獨有太平一公主,父為帝,母為后,夫為親王,子為郡王,貴盛無比。永淳已前朝制,親王食實封八百戶,有至一千戶;公主出降三百戶,公主加五十戶。太平食湯沐之邑一千二百戶,聖歷初加至三千戶。
神龍元年,預誅張易之謀有功,進號鎮國太平公主,相王加號安國相王,並食實封通前五千戶,賞賜不可勝紀。公主孽氏二男二女,武氏二男一女,並食實封。又相王、衛王重俊、成王千里宅,遣衛士宿衛,環其所居,十步置一仗舍,持兵巡僥,同於宮禁。太平、長寧、安樂三公主,置鋪一如親王。二年正月,置公主府。景龍二年,公主男崇簡、崇敏、崇行,同授三品,與漁陽王兄弟四人同制。時中宗仁善,韋后、上官昭容用事禁中,皆以為智謀不及公主,甚憚之。公主日益豪橫,進達朝士,多至大官,詞人後進造其門者,或有貧窘,則遺之金帛,士亦翕然稱之。
及唐隆元年六月,韋后作逆稱制,偽尊溫王。玄宗居臨淄邸,憤之,將清內難。公主又預其謀,令男崇簡從之。及立溫王,數日,天下之心歸於相府,難為其議。公主入啟幼主,以王室多故,資於長君,乃提下幼主,因與玄宗、大臣尊立睿宗。公主頻著大勛,益尊重,乃加實封五千戶,通前滿一萬戶。公主子崇行、崇敏、崇簡三人,封異姓王;崇行國子祭酒,四人九卿三品。每入奏事,坐語移時,所言皆聽。薦人或驟歷清職,或至南北衙將相,權移人主。軍國大政,事必參決,如不朝謁,則宰臣就第議其可否。
公主由是滋驕,田園遍於近甸膏腴,而市易造作器物,吳、蜀、嶺南供送,相屬於路。綺疏寶帳,音樂輿乘,同於宮掖。侍兒披羅綺,常數百人,蒼頭監嫗,必盈千數。外州供狗馬玩好滋味,不可紀極。有胡僧惠範,家富於財寶,善事權貴,公主與之私,奏為聖善寺主,加三品,封公,殖貨流於江劍。公主懼玄宗英武,乃連結將相,專謀異計。其時宰相七人,五出公主門,常元楷、李慈掌禁兵,常私謁公主。
先天二年七月,玄宗在武德殿,事漸危逼,乃勒兵誅其黨竇懷貞、蕭至忠、岑羲等,公主遽入山寺,數日方出,賜死於家。公主諸子及黨與死者數十人。籍其家,財貨山積,珍奇寶物,侔於御府,馬牧羊牧田園質庫,數年徵斂不盡。惠範家產亦數十萬貫。
唐も平安時代日本も、律令制の破綻で貧富の差が激しかったのは同じなのか。つくづく、このグダグダの中権力は奪われても権威を保ち続けた日本の国体ってのは特異だなぁ
現代中国での理想の女性は割とすごい姿だったが、とう時の美人の基準ってどうなのだろう?